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前世探訪5 八木英三
前前前世
前世探訪1で紹介したチャネラーDさんから以前知らされた前世は3つある。
一人目は八木英三である。八木については4度の旅で自分の生い立ちや性格、また旅での出来事から前世であるという実感を持つに至った。二人目はなかなか口にするのを躊躇してしまう人物だ。何故なら彼については八木のように僕自身が実感できる材料を持ち合わせていなかったことと、現在も存在する宗教教団の創始者だからだ。その彼とは室町時代に浄土真宗を開いた「覚如」であった。もう一人は日本人ではない。これはまた別の機会としたい。
今回は前世であると言う八木と覚如の検証とそこから見えてくる前世の今生の関係について考えてみたい。
前世探訪4で触れた通り、私はスプリチュアルカウンセラーであるアンジュさんにお願いし、前世について伺った。以下はアンジュさんの言葉をそのまま再現したものではない。正確さを保ちたいと思ったが、僕に彼女のヴィジョンが見える訳でもないので僕なりの解釈も加えた形での報告となっているのでご了承願いたい。
新聞記者
まず八木英三と言う情報を与えずに近代日本での前世を見てもらった。田舎の原風景
するとまず、疎開をしているヴィジョンが見えたという。それは両親の田舎でとても長閑(のどか)な様子で楽しんでいて、彼の職業は新聞記者、仲間と共に手仕事で新聞を作っている。彼は東京、神奈川に住んでいて都会が危ないので念の為の疎開だ。しかし彼の命は短かった。
八木は「花釜新聞」と言う新聞を発行していた事実があったが僕が引っかかったのは命が短いと言う点である。八木は昭和まで生きた人であるから件の新聞記者は八木ではないと思った。
この新聞記者が前前世だとすると少なくとも八木の生年から明治20年以前でなければならない。確かに東京・神奈川で言えば1870年に横浜毎日新聞が、1872年には東京日日新聞が創刊されており、その新聞記者の可能性はある。またこれより以前から明治の文明開化の流れにのって小冊子形式の新聞が多数発行されていたことも事実なので「仲間と手仕事で新聞を作っている」というのはそのことなのかもしれない。
しかし、都会が危ないので田舎へ疎開するような戦闘があったのかはまだ調べが進んでいない。
八木英三とその前世
僕は彼女に八木のことを告げ、「八木英三」とノートに書いて手渡した。彼女は「八木英三」と同じように僕の名前が書かれた部分に指を置いて軽く目を閉じた。彼女は目を閉じたまま何かを目で追っているかのようであった。
「東京に出ていないですか?先生は短いですよね。新聞社に出入していますね。そうか、仕事もしているんだ。」
と次々と語った。 これはすべて僕の調査に符合していたのでとても驚いた。八木は代用教員として18歳から20歳までの2年足らず教師をしていた。その後、東京の早稲田大学へ入学している。そして各地を主に教師をしながら渡り歩き岩手へ帰り教師をしながら花釜新聞を発行していたのだ。 さらに彼女は続けた。我らの志士横川
「新聞記者を買っていたのは(高く評価する)前世が新聞記者だったからね。そして政治に絡んで行くのは戦乱の日本で思想を元に新撰組のように戦う武士だったから。」
疎開をしていた短命の新聞記者が八木の前世であった。そして八木は岩手の地で政治絡みの運動を盛んに行っていたのも事実であった。今も流行の市の合併運動や鉄道誘致、そして空港建設促進、学校の誘致・・・。実は八木はこの運動が過ぎて教職を追われる身になったのだ。その政治に絡んでいく精神はさらに前の前世とも縁があったとは驚きである。
「記者もやっていて、物も書いているんだ。文章も。」
まさにその通りで彼は花釜新聞を発行する傍ら花釜新聞日の出新聞社から小冊子も発行していた。その一つが今年僕の手に入れた「吾等が先輩志士横川」である
八木英三と宮沢賢治
「宮沢賢治と面識がありますね。(彼女には賢治と会っている姿が見えているのか)賢治とは親しくて賢治は八木に本を書く助言を求めています。賢治は非常に自由な感じで独創的な文を書きますから行き過ぎないようにそのことで助言をしていたのです。賢治の魂とは何度も出会っていて天文学で繋がっています。」
八木と賢治については八木が代用教員だった頃に読み聞かせた童話が賢治の後の創作活動に大きく影響を与えたことが知られている。しかし、その後の賢治との関係はちょっとした再会があったと言うちょっとしたエピソードが八木自身の手記によって知られているのみである。
僕の前世を始めに教えてくれたチャネラーのDさんは今生で既に賢治の魂も分っているのだそうだ。Dさんは是非、今生の賢治と僕を会わせたいとおっしゃっていた。恐らく時期が来れば会うことになると思う。実は僕のこの前世探訪全体のきっかけは宮沢賢治の生き方を理想とするある団体が関係して始まったと言うのも興味深い事実である。
3回の前世探訪旅行
「この人(八木)線路に立っていますよ。下見をしています。」
実に僕の3回に亘る前世探訪の旅行は八木の愛した花巻が舞台であった。八木が前世だと知らされネットで検索したところ八木の本が見つかった。それが蔵書されている唯一の図書館が花巻図書館であった。その本を見る為だけに花巻へ行った。その他は何も目的がなかった。しかし事は成されていた。ふらふらと気の向くままに歩いた道が今は跡形も無い花巻電鉄であり、彼が「釜石鉄道繁盛記」に記した岩手軽便鉄道の廃線跡だったのだ。彼女はその線路上に立つ八木をその時見ていたのかも知れない。旧花巻女学校へ続く松並木
花巻高等女学校(現生涯学習センター)前の松僕は一回目の旅で探すつもりもなく見つけた八木の勤めていた花巻高等女学校跡の前にあった松並木の写真を彼女に見せた。
「特にこの木ではないですか?二階建ての茶色の古びた木造の学校でしたね。こっちにも木がありましたね。舗装されていなくて砂利道で。この手前の方に川がありませんか?こういう風に流れていて。」猿ヶ石川の境界票
この川の言及には驚いた。流れの方向から形すべてが一致していたのだ。そこには北上川に合流する豊沢川が流れている。この川のことは前世探訪3でも触れているので見て欲しいが八木はこの川を越えて代用教員の頃は通勤していたのだ。
「彼はとてもこの川が好きでした。通勤の途中ということでもありましたが、散歩をしていました。特にこの辺り(北上川と合流する付近)が好きでした。」
(この言葉に押されてすぐに4回目の花巻行きを敢行、これについては前世探訪4ですでにご紹介済み)八木は生徒を野外に、特に川原へ連れ出して写生をさせたりしていたのは事実である。そして僕は3回目の旅で偶然こんなものを見つけ写真に納めていた。「猿ヶ石川」と彫られた石柱だ。どうしてこれを写真に納めたのかと言うと釜石線の廃線跡を辿っていたら川が無いところに突如現れたから面白いと思って撮ったのであった。今、猿ヶ石川はもっと北で北上川に合流する川であるがかつては川の呼称の境界が今とは違っていたのかもしれない。するとこれまた僕は知らないうちに八木の好んだ場所を訪れていたことになる。
「稗貫風土記・人物編(補遺)」
八木は彼の著書「稗貫風土記・人物編」で郷土の人々の人生についてそれぞれ短くまとめた本を書いている。面白いことに僕が今、ここでしていることは八木が決して書かなかった自分自身についての短い伝記だ。だから僕はこの文を「稗貫風土記」の補遺・追加としてここに記す。これに因って彼のこの著作は完成されるはずだ。 直感に自然と導かれ旅とセッションによって得られた情報で構成されるという恐らく今までに例を見ない方法によってここに記す。 そしてこの文を僕の中に生きているであろう八木に捧げたい。
1986年、明治20年生まれる。18歳の時、花城小学校(現花巻小学校)の代用教員となる。この時、小学3年生であった宮沢賢治と出会う。八木は自分とそう年も変わらぬ生徒の教育に苦心し、考えた末に野外学習や童話の読み聞かせをした。それが生徒の心を掴むことになり、中でも賢治には大きな影響を与えた。
20歳になって八木は勉学のために上京、早稲田大学へ入学する。それは専ら教師になる為の準備であった。早稲田卒業の後は九州や奈良に赴任するが休みの旅に一目散に花巻へ帰郷すると言う郷土を愛する人であった。また、国を越え、朝鮮や満州にまで活動の場は広がり彼の視野もそれに従って広がった。30歳台後半には花巻に活動の拠点を戻した。
1925年、大正14年に盛岡中学校から花巻高等女学校へ転勤、彼の一生のうちで一番華やかな活動期を迎える。思春期の難しい女子生徒との間でも常に明るくユーモアをもって接し、彼は非常に安定していた。そしてこの時期から花釜新聞を発行し始める。新聞だけでなく小冊子も発行。その一つ「我等の先輩志士横川」は郷土、盛岡で不当に評価が低い新聞記者「横川勇二」を取り上げた本である。郷土に帰った彼は大胆に様々な活動に足を踏み入れていく。合併運動の推進、学校設立運動等をするうちに政治色を強めていく。彼にとって親友の存在は大きかった。彼は時として八木に活動の行き過ぎを心配し苦言を呈していたが、彼は一番の理解者で八木の行動を常に支持し勇気を与えていた。友人の忠告にも関わらず政治的活動の結果、1929年は教員として雇ってはもらえず、居を花巻電鉄支店長の社宅に移した。それでも1948年、昭和23年までは教職を何とか続けていたようである。この年62歳で彼は遂に教職を追われる身になり花釜新聞も閉刊に追い込まれる。
その後、大沢温泉に居を移し蕎麦屋を始める。素材へのこだわりは強く、お客を満足させる為に労を惜しまなかった。彼は田舎に身を引いたがその活動の手を緩めたわけでは無かった。4冊の著作を世に送り、若い人を集めて集会を開いていた。彼にはまだまだやりたいことがあったが1958年、昭和33年 72歳でその生涯を終えた。
 あとがき
私がこの様に稗貫風土記として世にある一般の風土記とは趣を異にする風土記を著したのには意味がある。私はまず、この郷土花巻を非常に愛しているということである。その郷土を成すものはもちろんそこにある山や川や海などの自然であるが、それだけでは唯の自然があるばかりである。私はそこに住む人々が郷土の主要な構成物だと固く信じて疑わない。私が愛するのは常に移り行く自然、そして生まれて死んでいく人々なのである。私はそのままにして置けば消えて無くなってしまうその愛する人々をここに残して置きたいと思った。そしてそのようにして私の生きた郷土、人々を残すことによって自分もここに生きた証をしたいのである。私は人の言葉やその生き方そのものに人がこの世に生まれてくる意味があると確信している。それは単に思考する哲学の中にあるのではない。全ての生きている人々の生き方を通じて見えてくるのだ。
私は皆と同じようにいずれこの世を去るが私は永遠に行き続けている証もしたいと望む。私がここでやり残したことを再びしたいと思う。それが今、この瞬間に成就している。私は私の来世を通じて私自身の風土記を完成させ、そして魂の不滅をここで今、知った。
20世紀の八木英三2003年11月9日

僕はこの様に後書きをつけるつもりは無かった。しかしこうしてタイプしているうちに自然とあとがきまでを打ってしまった。そして涙が溢れた。
八木英三 年表
西暦 和暦 年齢 出来事
1886 M20 出生
1905 M38 18 花巻川口尋常高等小学校(現花巻小学校)へ代用教員として赴任。3年生の担任となり、宮沢賢治と出会う。この時、花城小学校は現在の市役所近くの旧校舎から現在の校舎へ移った。花城小学校(現花巻小学校)3年生の担任、宮沢賢治と出会う。
1906 M39 19 花城尋常高等小学校(旧花巻川口尋常高等小学校)4年生の担任。
1907 M40 20 2月、退職後上京し、早稲田大学入学
1925 T14 39 盛岡中学校から花巻高等女学校へ転勤、花釜新聞発行
青年時代日本国中を方々・・・。或は職を求めて朝鮮に渡り、満洲入りしたこともある。大体は教員の職であつた(稗貫風土記)
1928 S10 42 この頃、後に八木が養子とする男の子が生まれる
1929 S4 43 無職(花巻町政史・・当時私は花巻電鉄支店長の社宅に住んでいたが無職であった
1933 S8 47 「最近の満州の使して」 発行。
国策としての満州移民事業を岩手県内の青年たちに鼓吹する目的で出版。
花巻町東公園(現在は無い住居表示、鳥谷ヶ崎神社付近)に居所あるいは新聞社があった。
1935 S10 49 宮沢賢治と再会、(宮沢賢治研究、「宮沢賢治に聞いた事」)
1939 S14 53 「我等の先輩志士横川」 発行。
横川省三、35周年忌日にあわせて書かれた伝記。
花巻町東公園在住
1948 S23 62 公職追放、花釜新聞閉刊
大沢温泉へ転居
1950 S25 64 「釜石鉄道沿線繁盛記」 発行(大沢温泉在住、公職追放以降からか?)
1951 S26 65 「稗貫風土記・人物編」 発行
1953 S28 67 「復興への道」 発行
「少年宮沢賢治」寄稿(「四次元」第五巻第九号)「今はすでに前だれ商人と早がはりしている次第だ」・・・恐らく大沢温泉で蕎麦屋をしていることを指していると思われる。前世探訪での老女の証言を裏付けるもの
「賢治の幼友達」寄稿(「四次元」第五巻第十号
1955 S30 69 「花巻町政史」 発行
1958 S33 72
1965 S40 「拓」出生
「前世探訪6」 覚如に続きます。

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