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前世探訪3 シンクロニシティ
シンクロニシティ
2003年6月28日(土)
早朝4時15分、フロントガラスに小さな雨粒がついた。まだ薄暗い中、駐車場を出た。 3度目の花巻への旅である。バス、電車・・・そして遂に車での旅の敢行。 首都高を抜け、東北道に入ってから雨は本降りとなってきた。 僕はどうせ花巻まで行くのだから途中、寄り道をしようと計画していた。一ノ関で中尊寺でも見てみようと思ったのだ。ところが仙台を過ぎても雨は収まる気配を見せなかった。それどころか、PAでトイレに行くだけでもしたたか濡れてしまう程だ。とりあえず、一ノ関インターで降り、平泉に向かった。
狭い県道は既に轍に雨水が溜まっていた。路肩の水溜りを跳ね上げる水しぶきの大きな音で思わずハンドルを硬く握っている自分に気づいた。中尊寺はこの雨の中でも観光客がぞろぞろと歩いていたのを見て僕は中尊寺をそのまま通過していた。そして国道4号線を北上して最初の宿、北上へと向かった。八木の文を思い出す。
「私は九州に居て大宰府を知らず、長崎を見ない。奈良に住んで京都を知らない。・・・松島も中尊寺も見たことが無い。これらの名勝を探るよりも郷土の知己を誇り、荒涼たる郷土に對面することの方が私にははるかに愉快である。」(八木英三「稗貫風土記」の序より)
どうも半ば強制的ではあるが、僕は八木と同じ行動をとらされているようだ。それとも前世探訪以外は許さぬと言うことなのだろうか。北上駅前の宿についた。格安のビジネスホテルであるが用は十分足りた。ネットの設備もあったので友人にメールを打つこともできたし、掲示板へ書き込むこともできた。早めに眠っておこうと思いながらも明日の天気が気になった。外はビルのサッシをも通過して雨音がしていた。天気予報も芳しくなかった。明日はいよいよ花巻入りだと言うのに。。

2003年6月29日(日)
いつもの癖で5時30分に目が覚める。雨は小降りになっていたがまだ降っていた。しばらくベッドにねそべったまま気になる天気予報を見るが「曇り一時雨」、降水確率50%。予報からすると絶望的な気分になるはずなのだが、「これが最良なのだ」という明るい思いがあった。そして、その場その時の状況をそのまま受け止めて判断しようと思うのであった。 8時30分。北上を出発し盛岡へ向かった。なぜ、盛岡なのかと言うとひとつの目的があったのだ。ネットで八木を検索していたら「我等の先輩志士横川」と言う八木の著作が盛岡の古書店にあるらしいことがわかったのだ。ただ、検索でヒットしたのは最近使われていないらしいページでそのアドレスの元を辿ったところある古書店であることが分かったからだった。恐らくその古書店で以前使用していたデータベースであろう。ネットで検索した限りでは古書店は盛岡ではそこだけであったのでひとまず確認に行ってみたかったのだ。(ここで普通ならば一本の電話をかけてその古書があるかどうかくらい確認するのだろうが不思議としなかった。何故、電話で確認しなかったのか・・・実はこれが最良だったことは後になって知ることになる。)

花巻空港を過ぎたところで思い立って羅須地人協会(新しい農村共同体を目指して賢治が設立した協会)に行こうと決めた。右折するとまもなく駐車場の案内が見えた。(ここに到着するまで実は道を間違えていたのだ。新しく国道4号バイパスが工事中で地図と随分様変わりしていて道を見失ったのだ。しかし、それでも羅須地人協会にダイレクトで到着した。)目的の建物は賢治が教鞭をとった花巻農業高校の敷地内にあった。この頃になると雨はすっかり上がっていた。協会の建物はこぢんまりとしていて玄関の黒板におなじみの「下ノ畑ニオリマス」の文字がある。戸を開けると薄暗く狭い玄関、廊下には二階への階段がある。羅須地人協会 「下の畑に居ります」その廊下左手八畳の和室の襖は開け放たれており、その部屋を廊下が囲んでいる。ガラスをはめ込んだ引き戸から戸外の柔らかな光がそのまま和室に入ってきて明るい雰囲気を作っていた。右側は教室になっていて広さは6畳ほどだろうか薄暗い室内。小さなオルガンが置いてあった。僕はこの雰囲気を味わうように部屋の空気を吸い込む。壁には賢治自筆のチェロ練習用楽譜が飾られていた。同じ音楽を愛するものとして非常に賢治が身近に感じられた。そして何より、自分も同様に高校生の頃、後輩にこの様にして教えていたことがあった。そのせいだろうかここが妙に懐かしく感じられ自分の記憶の内にあるように感じた。
盛岡へは11時ごろ到着した。立体駐車場へ止めようとするとお兄さんが出てきて「もしかして、じゃじゃ麺食べに来たの?今日、そこのパイロンはお休みだよ。カワトクの地下のなら10時からやっているからこっちの駐車場でなくカワトクの駐車場へ行ったほうがいいよ。ここでたら右行って・・・」と僕は勢いにおされそのまま礼を言ってその駐車場を後にした。これで僕はじゃじゃ麺を食べることにした。(実は冷麺にしようと思っていた)川徳(盛岡では相当名が知られたデパートらしい)の地下に白龍(パイロン)はあった。行列のできるお店らしいのだが僕が行った頃は待たずに座ることができた。しかし、しばらくすると見る間に行列ができた。(僕はしばしばこんな経験をする)じゃじゃ麺は少し平たく細いうどんのような麺に特別な味噌を絡めて食べる非常にシンプルなものだった。食べ始め何でこんなものに行列ができるのだろうかと思っていた。しかし食べ進むうちに妙に旨く感じてきて目の前に置かれている薬味を加えるとさらにその旨さは増したのだ。どうも味噌に秘密があるらしい。味噌そのままではなかなか塩辛いだけだがあつあつの麺で味噌がのびて麺全体にその味が薄く行き渡ったときにその深い旨さを感じることができるのである。これは癖になりそうだった。値段も450円で非常にリーズナブル!お勧めである。
川徳を出ると外は強い日差しが待っていた。天気予報は見事に外れていた。目的地の古本屋は川徳を出て五分ですぐに探し当てることができた。「キリン書房」である。狭い店内に無造作に古書が積み上げられていた。ここから探すのは容易なことではないと思われた。郷土史関係は3階だったので上がっていくと本に囲まれた机の向こうに店主がパソコンに向かっていた。八木英三の名を告げても全くピンと来ない様で「まず無いでしょう、本はすべて目を通すから100%とは言いませんが90%は難しいでしょう。」との返事であった。店主なのだからすべての本には精通しているはずで、僕は店主の言葉を信じる以外なかった。しかし、僕は八木が何か面白い宝物を用意しているかもしれないと期待していたので店主の言葉を受け入れるのに少々時間が必要だった。 花巻に戻ったときはお昼を少し回ったところだった。あのネットでの情報は八木が僕を再び花巻へ駆り立てる為の餌だったのかもしれないと思った。
釜石軽便鉄道廃線探索
軽便鉄道花巻駅跡花巻の市営駐車場に車を止めた、そこは「なはんプラザ」の直近の駐車場である。この「なはんプラザ」の裏手がかつての軽便鉄道の花巻駅跡である。ここから約3km先の似内まで歩いて探索することにする。雨が降っていたらこれは不可能だった。空を見上げると黒い雲があちこちにあるが雨は落ちてこない、青空さえ見える。直射は無く歩くのに絶好の条件となった。旧花巻駅を出た軽便鉄道は現在の釜石線とは逆にまず、南進しNTT花巻支店裏で急カーブを右折し、旧国道4号線にかかる「さいわい橋」を渡る。旧花巻軽便鉄道本社さいわい橋この橋を渡りきると右に一風変わった建物が見える。 さいわいばし市森林組合の建物でここにはかつて軽便鉄道本社があったところだ。旧軽便鉄道本社左はかつての花巻女学校である。(前世探訪1で紹介)そして斜め右にあるのが「鳥谷ヶ崎駅」跡である。(前回の旅ではそれとは知らずに見ていた)そのまま道なりに進むと左に上がっていく小道がある。ここを上がれば花巻小学校である。軽便はこのまま西進し、右に弧を描きながら少しずつ下ってゆく。 鳥谷ヶ崎神社裏で道が二又に分かれていた。右は良く整備された道で左は道幅も狭く坂も急であった。軽便はここから左に折れ、似内に向けてほぼ一直線に伸びていたのだ。坂を下っていくと左側に「猿ヶ石川」と言う建設省の管理境界を示す石柱が立っていた。境界標現在、その川はここから1km程北に行った北上川分かれる支流なのだがなぜここにこの石柱があるのかわからなかった。石柱だけが取り残されて建っているのがどこかユーモラスだった。さらに行くと北上川支流の「後川」に遮られた。後川を横切る 軽便軌道跡舗装もされていない、往時を彷彿とさせる風景かつてはここに鉄橋が架かっていたのであろうが完全に改修工事を施されていて跡形もなかった。すぐ脇に国道4号線が走っているのでその橋を渡って対岸に出てみる。するとかつての軌道跡と思われる砂利道が残されていた。今まで見た中で一番細い部分である。恐らくこの2m半くらいの幅がオリジナルの軌道の幅であったと推測される。 軌道は国道4号を横断し緩く右にカーブしながら直進し、イギリス海岸の脇を抜けていく。 そして瀬川を渡る。現在「小舟渡橋」という橋が架かっているがかつての面影の微塵も感じられない。やがて大きな陸橋が見えてくる。これは国道4号の花巻バイパスである。今の国道も花巻中心からはずして新設されたが、さらに外へと移されるようだ。この陸橋付近からはさらに道路の改修がすすんでいて軌道跡の面影を感じるのは絶望的に思えた。すると、微かにコトンコトンと列車の音が聞こえた、釜石線の音だった。気を取り直して陸橋をくぐると真新しい道が右に緩いカーブを描いて走っている。そのカーブの根元から横にその道より少し細い道路が枝分かれしてその道を少し行って振り返ると、この道と今まで歩いてきた新道が一直線になっていることが確認できた。その道を少し行くとさらに道が枝分かれしていた。似内駅先で軌道は現在の路線へと吸い込まれていく新道が「幅」を利かせている 合流地点軌道は左へその道は未舗装の幅2メートルの道で右カーブを描きながら続いていた。その道に入るとカーブの先にぽつんと信号機が浮かんで見えた。この道こそ軌道跡だと確信して進んでいく。左手に現在の「似内」の駅が畑の向こうに見えた。少しずつ軌道跡は現在の釜石線に近づいていく。
そして第7似内踏切から先で軌道跡は釜石線の敷地に吸い込まれていった。

似内の駅へ着いたときは14時20分。花巻行きの列車は14時05分の後、なんと16時57分であった。ここからまた歩いて帰るのも大変だったので、逆方向の土沢まで戻りそこで上り快速電車をつかまえたらどうだろうかと思いついた。それでも1時間近くは待つのだが・・。36分に下り列車があったのでそれに乗ることに決めた。2輌編成の車両が左右に車体を揺らしながら入ってきた。ここでは降りる客がいないと扉は開かない。乗る側が車両の外にあるボタンを押すと扉はそこだけ開く。そして中に入ったら閉めるボタンを押すのだ。慣れないとかなり戸惑う。乗ってすぐに「次は新花巻〜」のアナウンスがあった。僕はその途端に考えを変えた。新花巻で降りてバスかタクシーで花巻へ帰れば良い。すぐに列車を降りた。するとバスはすぐにやって来た。バスは宮沢賢治記念館を経由して花巻へ向かった。
花巻に着くとまだ、3時半だったので花巻図書館に寄って行くことにした。郷土資料室へ入ると以前とは様子が違っていた。どうも資料の整理をしているらしく八木の本が容易に見つからない。八木の本ではなく、軽便鉄道の本が見つかった。それは非売品の本で軽便鉄道が開通した記念に沿線を紹介した小さな本であった。花巻駅付近の観光案内なども記されていた。それが今日歩いてきた記憶にダブってしまい、僕はあたかもこの本が出たそのときにこれを読んでいるかのようにさえ思えてしまった。
既に5時近くになっていたので宿へ向かった。志度平温泉旅館である。前回泊まった志度平ホテルと経営は同じであるがこちらは自炊部もあり、相当古い。数年のうちに建替えになるそうであるので良いタイミングであった。料理はホテルの方に比べれば劣るものだった。とは言っても値段が半額近いので無理も無い。今回は随分と安く上げたのだ。一泊二食で五千円なのだ。食事を済ませた後は早々に寝ることにした。と言うのも僕は一人きりで露天風呂に浸かりたかったのだ。思い通りに夜中3時に起き、露天風呂を独り占めして堪能することができた。旅館は豊沢川に沿って建てられており、露天風呂の眼下には豊沢川が流れている。向こう岸は切り立った崖でその岩肌がライトに照らされて闇夜に浮き上がって見えるのだ。。
時を超えた贈り物
6月30日(月)
すぐに南花巻から東北自動車道に入る。天気は曇りであったが雨は落ちてこなかった。これなら中尊寺も行けそうだと思って平泉で降りた。中尊寺の駐車場はガラガラであった。一昨日は雨にもかかわらず混んでいたのに・・。行きかう観光客もまばらでゆっくりと見学できた。

中尊寺 一ノ関から高速に入り帰途に着いた。高速に入ってしばらくするとポツポツとフロントガラスに水滴がついたかと思うと先も見えぬほどの大雨になってしまった。前の車のテールランプを頼りに80kmで走行したがそれでも運転するのが怖くなるほど。この様な大雨の中の運転は数年振りだろう。しばらく緩々と走っていると灰色の分厚い壁の中からPAの看板が突然見えた。すぐさま入って車を止めた。平泉にもう少しとどまっていたらこの豪雨にあってずぶ濡れになっていたかもしれないと思うと愉快になった。自宅に着いたのは夕方6時ごろだった。。 今回は僕が小学生の頃から好きだった廃線探検の旅になってしまった。それだけでも十分に楽しかった。しかしどうしても八木の本が気にかかったので念のため古書店にメールを出しておいた。我等の先輩 志士横川 するとなんと八木の著作があったとのことで僕はすぐに送ってもらった。それは郷土であまり適切な評価を得られていないと八木らが思っていた「横川省三」の記念碑建立に際して八木が作った伝記のようなものである。巻末を見ると・・・・

昭和十四年五月二十日印刷
昭和十四年五月二拾五日発行
編集・発行人 花巻町東公園 八木英三
印刷人    花巻町東公園 八木英三
印刷所    花巻町東公園 日の出印刷所 電話 花巻二五三番
発行所    花釜日の出新聞社

となっていた。 今まで見つけていた著作はすべて鶴田印刷(現在もある)で印刷されており、八木の住所も大沢温泉であったが今回の著作はまだ彼が公職を追放される前の花巻市内に住み、「花釜日の出新聞」を経営していた時期に書かれたものであった。 余談になるが八木の居所に関して彼が代用教員を勤めていた時代はどうだったかというと女性岩手への手記にこんな一文がある。
「私は子供等のこの着実な考え方に、自分の無鉄砲さの影響しなかったことを私(ひそ)かによろこび、浅春の豊沢橋橋上までみんなにみおくられてアバラ屋にかへった。」
彼は花巻市内ではなく豊沢川を越えた現在の桜町付近に住んでいたようだ。 送られて来た黄ばんだ小冊子を手にとってじっと見る。これはまさに八木が書き、印刷していた手作りの本であろうと思った途端、『八木が触ったかもしれない』と言う思いが身体を貫いた。八木から僕への時を越えた贈り物のように思えたのだ。
後日談
先に電話で古書店に在庫の確認をしなかったことで最良の結果が得られたと言ったがこれは以下のような理由からだ。
@この小冊子について事前に古書店に問い合わせていたら「無い」と返事されるであろう。そうすれば古書店に足を運ぶこともなかったし花巻への旅も見送っていた。
A現地で「無い」と言われたことでそこで探すのを断念した。実は70ページほどの小冊子であるから背表紙もなく、書棚に並んでいても題名は見えないし、本があるのか無いのかさえ判別つかない。つまり探していたら相当な時間のロスで廃線探検は叶わなかった。

さて、僕は留守勝ちの為古書店に八木の著作を会社に送ってもらうように頼んだのだ。その本が会社に届いた日、僕は買いたい文具があったので千葉へ、しかし目当ての文具はなく本屋に寄った。そのとき以前から購入したかった「鉄道廃線跡を歩くZ」を手に入れた。そこには「花巻電鉄」の記事があったからだ。その中に花巻電鉄の路線が現在の地図の上に描かれていた。それを見て驚いた。僕は一番初めに花巻を訪れたときにその廃線跡を歩いていたのである。それは非常に細い裏路地であったのだが僕は非常な興味を持ってその道を歩いたのを記憶していた。やはり2メートル半程度の幅であった。
その時、時間があるからと歩いた図書館からの駅までの道の全てがかつて花巻電鉄の軌道跡であった。消防署付近は花巻温泉へ行く路線と鉛温泉へ行く路線が分かれたところで、緩くカーブしながらJRを越えて行く橋もまさに軽便の橋で僕が歩いたとおりに急カーブして花巻駅方面へ大通りの裏を走っていた。そして今は新しい橋ができたために道は寸断されたが、上述の空き地の向こうで釜石軽便鉄道と合流していたのである。
この様にして僕の花巻軽便鉄道の廃線跡探訪は第1回目の旅でなされていたのである。しかも次の日に大沢温泉まで行ったがそのバス路線もその鉛温泉行きの軽便鉄道の跡で、大沢温泉の駐車場もかつて駅があった場所で、泊まった志度平にもその駅があったのである。
「前世探訪4」同時に生きるに続きます。

前世探訪